自意識と人権とこころ

 差別撤廃や人権尊重の話をすると、悲しい顔をする者がいる。どうやらそういう話を すると自分が攻撃されたと思うようだ。だからだいたいが悲しい顔をしたすぐ後にこちらを小馬鹿にするような攻撃的な 態度を見せる。人権を守ろうというのは信号を守ろうというような当たり前の話だ。信号を守ろうと言われて 自分が攻撃されたと思う人はまずいないだろう。よくよく彼と話すと彼らは自分は人権による被害者だと言う。 人権によって自分は傷つけられたのだ、と。そういう事実があったとしてもそれが人権を守らない理由にはならない。 不幸な交通事故にあったからといって「信号なんて偽善だ嘘だ、おれはもうこれから信号なんて守らないぞ」とはならないはずだ。
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 ただ、わたしは学校での人権教育が人権に対する不信感をつのらせている一因であるとも思う。 それは端的にあの異常な校則の数々に見られるように、生徒の人権や自意識、人格が守られていない状況下で「人権を守ろう」と言っても何の説得力も無いからだ。 しかもこのダブルバインドは人を支配するのに有効な非常に危険で悪質な人間関係のやり方であり、端的に暴力による支配だとわたしは思う。 つまりこれは「教育」ではなく「調教」だ。公教育でも家庭でもすべき事ではないしさらに言えば「調教」された自意識は人権のみならず自意識さえも自ずから放棄するようになるだろう。
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 人権の問題とこころの問題は別次元の問題で、ここを混同する者が人権によって傷つけられたと思うのかもしれない。 人権はこころを直接救わない。当然だ。信号もこころを救うわけではない。もっとその前提にある話だ。 信号を守らなければ命が救われない。と同じく人権を守らなければ命が救われない。命が救われなければ こころも救われないのだから、人権を守ろうなんてのは当然の話だ。わたしは命とこころは同じものだと思う ので人権を守る事は即ちこころを守る事だと思っている。
 が、人権と相性が悪いこころの領域があるのも事実。自意識は人権と相性が良い。相性が良いというか、明確、明瞭な自意識無くしては 人権は成立しない。が、こころは暗いのだ。もちろん暗いだけではないが暗い闇のような、森や深海のような領域の方が大部分だ。 人間が現代人になったとてこころにはこのような蒼古的領域が今なお残っている。 それは自意識や人権という光が届かないこころの領域だ。 そしてわたしやこころ身体、また共同体や社会の再生や創造は必ずこのこころの闇の領域、蒼古的、太古的領域から起こる。 しかし人間があまりにも自意識や人権、光の方に同一化するとこのこころの太古の領域はうまく作用しなくなる。 光は尊いものだがそれは闇を排除殲滅するようなものであってはならない。 また逆に闇にのみ同一化すれば人間は闇に呑まれ返って来れなくなる。 こころの太古的領域は非人間的領域でもある。 故に人間の「人間らしさ」を守ろうとする人権とは特に相性が悪い。 人権は人間を守るが非人間を守らないだろうし排除するだろう。もちろん人権とはそういうものだからそれでよいのだ。 都市が自然を排除、周辺化するように。しかし自然もまた都市を呑み込もうとするだろう。それは自然の性だ。 念の為に書いておくが非人間的とは非人道的という事ではない。それは文字通りこころのなかの人間ではない部分の事だ。 人類は数千年をかけて「人間」になった。それは人間でない「自然」を開拓し征服し続ける事によってだ。 その過程で神だった蛇は倒すべき悪魔となり、蛇が棲んでいた森は畑になり、森を追われた魔女が焼かれ、近代が始まり 電気が闇を駆逐し、ついに現代に至って人間にはいよいよ瀕死の自意識しか残らなくなった。 人権が守る「人間」とはいったい何なのだろうか。この瀕死の自意識の事なのだろうか。 違うだろう。人間はもっと豊穣な存在なはずだ。 だから人権の尊重と同時に、人権が守るべき人間のこころ身体の再生が必要なのだが、 その再生はこころの蒼古的領域、闇、非人間的領域からしかなされない。 これは人権を取るか、こころを取るかというような粗雑で幼稚な極論なんかではない。 現代の「わたし」は不自然かつ自然でなければ生き生きと生きる事はできないという事だ。 近代を否定し無理な自然を生きようとするものは幼稚かつ痴呆なカルトに陥るだろうし、 近代のみに同一化し自然を無かった事にするものは瀕死の自意識を生きながらえさせる事に窮窮として憤怒と惨めさだけの日常を送ることになる。 わたしは光であると同時に闇であらねばならないのだ。 こころを排除する人権であってはならないし、人権を蹂躙するこころであってはならない。 わたしは無邪気にこころの蒼古的領域を賛美しているわけではない。 このこころの「非人間的領域」でもある蒼古的領域は再生創造もするが破壊もする。 しかも取り返しのつかない破壊をする。 こころが破壊的になる時は「無かった事にされた」時である。 在るものを無かった事にする時、こころは怒り狂い復讐を始める。 わかるだろうか。 ひっそりと野に咲く花は核爆弾にも等しい威力を秘めている事を。 その事をこの社会に生きる人は誰も知らないだろう。 野に咲く花を無かった事にするならば野に咲く花はいずれ核弾頭と化すだろう。無かった事にされたものは 戦争をしてでも存在し、「在るが在る」を表現せざるをえないからだ。 「無かった事」にしていいものなど、この世界には何ひとつない。
 だから「在るが在る」と言うだけでいいのだ。人権もこころも、「在るが在る」と言えばいい。 戦争も平和も「在るが在る」の裏表。「在るが在るを在らしめる」事だけが 生命を生命たらしめ、歴史を救い、時間に報いる事となる。時間に報いた人間。それは最後の人間になるという事だ。







                  

 

魔神臓