わたしは他人の神になってはいけないし、他人を神にしてはいけない。
わたしはわたしの神になってもいけない。
神はただあらしめるだけ。
神は死んだというがそれは大きな神が死んだというだけで、
神は小さくなって個々人において顕現されるという事である。
人間は神から逃れる事はできない。
個々人が自らの責任と倫理で神聖顕現しなければならないのは歴史の必然である。
つまり現代人はゆるく壊れながら生きていかなければならないという事である。
死んだとされる神々はどこへ行ったのかといえば、こころの病やアルコール、薬物、犯罪、差別、貧困、あらゆるトラブルの中
へ追いやられた。神々はゴミ箱の中にいる。
これは一個人の中においてもそうで、一個人の神的な何かは、己のこころの中の見たくもない触れたくもない
何かの中に隠れている。ゴミやうんこによってしか表現されえない何かだ。
ゴミ≒神から逃れようとする個人はこころから逃れようとするだろう。
その為に勤勉に働き慎ましく成功し、この社会で幸福を実現するだろう。
しかしそれは無責任かつ非倫理的な営為だ。神をゴミ箱か便所につっこんだままだからだ。
しかもそうした個人は他人に神≒ゴミを押し付ける。
そうして社会には必然的に依存症者やこころの病、貧困、犯罪が「生産」される。
格差社会はこころのごみ≒神の押し付け合いが産んだ側面もあるだろう。
一方で他人のに神≒ゴミを積極的に引き受けようとする者もいる。異常な承認欲求を満たす為に。
他人の神を引き受け「続ける」のがインチキ宗教であり、カルトである。それは何も宗教に限った話では無い。
あらゆる社会的営為においてそうだ。政治でも音楽でも芸事でも経済活動でも何でもだ。
そこで誰か一人が神を引き受け「続ける」ならばそれはカルトだ。
投影が悪いわけではない。投影がなければ人はそれが自分の中に存在している事に気が付かないからだ。
投影はそれが引き戻されるならば健全なこころの作用だ。
またヒーローやアイドルがいてもいいだろう。そういう機能や作用として必要な「時」があるからだ。
が。その「時」を超えてそれをやり続けるならばそれはカルトだろう。
それは個々人が神聖顕現する貴重な「時」を奪う営為だ。
王と奴隷しかいない時代はとっくの昔に終わっているはずだ。
とっくの昔は王と奴隷の共同作業によって神聖顕現は実現していた。
が、現在は個人一人の中でそれをしなければならない。
ゴミまみれの神を救い出すのはその個人の責任であるしそれはその個人の人生そのものだといえる。
アル中はアルコールを救わなければならないし、シャブ中はシャブを救わなければならない。
でなければ「わたし」が救われる事はない。
大切なのは「わたし」ではなくこころだ。
神聖顕現はもはや宗教的営為ではない。
現代を生きるものにとっての倫理である。
それなくして社会は存続できないところまできているし、
病い≒神が病いのままならば、それは個人の個を成立させないほどに個を蝕むだろう。
神聖顕現に決まった道もやり方も無い。儀式も戒律もなければ教団も不要。
ただ他人を神にしない、他人の神にならない、神をゴミ箱につっこまない、その倫理さえありさえすればいい。
運命に、誠実に。野に咲く花はきちがい